2009.8.6.

日本衛生学会の編集委員会の仕事として,市ヶ谷でJ-STAGEのセミナーに参加してきました。


例によって(?),少し早目に東京入りして(倉敷から向かうと,朝の時間が違うだけで,どの道,大学でその朝はそれほど仕事ができないので)・・・東京散策です。

今回は,市ヶ谷近く・・・四谷を散策です。

JR四谷駅から,迎賓館の方へ向かうと・・・四谷見附公園です。
どうってことない公園と言えばそうなのですが,でも木々も大きいし・・・
憩いの場が,結構,多いですよね・・。

そして,新宿通りと外苑東通りに囲まれた,「若葉」「須賀」という地名の当たり・・
昔ながらの道路なのでしょうね,込み入って,せまくって・・・でも,寺院と須賀神社を中心に・・・江戸も残っているような・・・。

そして,坂が多い辺りです・・・。最初は鉄砲坂

続いて戒行寺坂,その周りには,宗福寺さん,そして戒行寺さん・・・。
  


東京はまた,こういった江戸の名残の説明板なども,おちこちに立っています。

そして,須賀神社に参ってきました。

『今の須賀神社はもと稲荷神社でした。その稲荷神社は、往古より、今の赤坂、一ツ木村の鎮守で、清水谷に有ったのを、後寛永十一年に江戸城外堀普請のため、当地(現在地)を替地として拝領し、移し奉ったものと伝えられています。須佐之男命の鎮座の儀は、寛永十四年、島原の乱に日本橋大伝馬町の大名主馬込勘由と言う人が、幕府の命に依り、兵站伝馬のご用を勤め、その功績に依り、現在の四谷の中心一円の地を拝領したのを機会に、寛永二十年、神田明神社内に祀ってありました日本橋伝馬町の守護神(須佐之男命)を地元民の総発意で四谷に合祀し、御両社として祀る様になり、俗称四谷天王社と云い、明治維新まで親しまれて来ました。明治元年に須賀神社と改称され、明治五年に郷社に昇格、戦後は制度の改正により、旧社格は撤廃されました。』との説明です。

『社名の須賀とは、須佐之男命が出雲の国の簸の川上に八俣の大蛇を討ち平らげ拾い「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と宣り給いて、宮居を占め給いし故事 に基づき名付けられた名称です。往古の御社殿はつまびらかではありますが、戦災前の御社殿は、文化十一年八月に起工し、十五年の歳月をついやして文政十一年十二月に竣工したものです。大正十二年九月一日の関東大震災めでは江戸名所図会に描かれたままの姿でありました。昭和二十年五月二十四年の東京大空襲の折り、御本殿並びに御内陣と境内摂社を残した外一切の建物を失いましたが、戦後、氏子崇拝者の赤誠(せきせい)に依って 今日の復興を見ることが出来ました。』だそうです。
大国主命さん・・・こんなところでお出会いするとは・・・。
6年生の講義で写真を探していました・・・よかったです!
  

そして,三十六歌仙・・・
   
『天保七年に画かれたこの三十六歌仙は戦時中、御内陣金庫の中に納められていたために災火を免がれ、現在当社の社宝として残っています。三十六歌仙繪は、それぞれの歌人の肖像画に代表作一首を書き添えたもので、鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛を見ました。画工は四谷南蘋(なんびん)と称された高芙蓉の高弟、大岡雲峰(当時七十三歳)(天保七年)の作、文晃時代の画家で歌は千種有功郷の書であります。千種有功郷は千々酒舎と号し、正三位 中納言で、和歌は藤原忠良、有栖川熾仁親王、久世通理等に学び、また景樹秀鷹と交わり、一種の風を詠じたる人といわれ、大岡雲峰は旗本で四谷大番町(現大京町)に移住し、公郷に交友多く、 当図は衣冠の考証が正確であるといわれています。』とのことです。


江戸の火消し櫓も残っていました。
  
   

再び,信濃町の方に向かって・・・・。
報恩寺さん,本性寺さん・・・毘沙門天がありました。
  ......   


そして,四谷・・・・そうですね,四谷怪談・・・御岩さんの・・お稲荷さんがありました。
御岩稲荷田宮神社ですね・・。
かつ,向かいの陽運寺さんにも祀ってありました。

ちょうど,お掃除をされてましたが,かわいい小物も多くあって・・・お寺さんの奥さんでしょうか?
きれいにされてます。

『鶴屋南北七十一歳の作品『東海道四谷怪談』は文政八年(1825)七月、 江戸中村座で初演されたそれは『仮名手本忠臣蔵』の外伝であり、二日に わたって交互に上演されたという。お岩の夫の民谷伊右衛門は元赤穂藩士の浪人だったが、吉良家の家臣の 娘といい仲になり、婿入りすれば再就職できると、お岩に毒を盛って殺し てしまい、新婚の夜からお岩に幽霊に祟られ、あげくはお岩の妹お袖の夫 である佐藤与茂七に、主君の仇討の裏切者として討たれるという話である。』ですって,へぇ!


で,ここが陽運寺の御岩稲荷なのでしたが,道をはさんで向かいにもあります。
(本家,元祖を競っているって話もありますが・・・どうなのでしょうか?)

『南北の芝居にはネタ本があった。四谷左門町に住む御先手組同心田宮又左衛門 の娘お岩は、疱瘡を患って面相が醜かったが、摂州浪人伊右衛門という夫がいた。 この伊右衛門に、与力伊東喜兵衛が自分の妾を押し付けようとして、伊右衛門と 喜兵衛らは策謀してお岩をさんざんにいじめ、離縁して家から追い出しまった。 お岩の幽霊が出たわけではないが、その後、不思議な事件が次々と起こり、 関係者はすべて死んでしまったと『四谷雑談集』に伝える。』と,伝えられています。


さて,祟りのないように・・・丁重に参った後・・・再び,坂散策!

 ・・・・>女夫坂?
    円通寺坂・・・    
そして,東福院坂・・・・。
     
 そして,観音坂....   

ぐるぐると回って・・・西念寺さんに..............
  
 


さて,四谷散策を終えて・・・・少しまだ時間の余裕があるので・・・
中央線沿いに・・っていうか,外濠公園を歩いてみましょう!
市ヶ谷まではすぐです。

やっぱり東京は緑が多いって感じますね・・。
風力・太陽光発電もされています。
   

そして,外濠の跡なのですよね・・・この辺りの池っていうか・・・市ヶ谷の東は釣り堀になってますけれど・・。
電車が行きます。
 

市ヶ谷の駅です。

 会場のビルからの眺め。